徒然なるベルボーイ

わざわざ誰かと議論するのも野暮ったい、でも言語化したい、そういうことを書きます

アサガオ

僕が今まで見てきたものの中で一番綺麗だったものは、雨に濡れたアサガオだ。

 

小学校2年生のとき、学校で1人1つアサガオを育てていた。周りの子らの花が咲く中、僕のアサガオはなかなか蕾を開かない。登校すると急いでアサガオを確認しに行くのが日課になっていた。ある雨の朝、「◯◯のアサガオ咲いてたよ」という友達の言葉が終わるのを待つことなく、僕は走り出したのを覚えている。

鉢置き場では、鮮やかな紫色の花が1輪、雨の中で輝いていた。しっとりとした肌の上で紫色の雨粒がキラキラと光り、奥の淡い色に吸い込まれそうだった。僕は息をするのも忘れてうっとりと見つめていた。今思えば周りには他の友達や登校してくる児童らが居ただろう。でも、僕の意識下には音すら無く、ただ僕とアサガオだけがいた。

こんなにも強烈に感動を覚えたのは、僕のアサガオが特別美しいものだったからではないだろう。他の子の目には留まらない様なものだったが、あの花は間違いなく人生で一番美しいものだった。

独我論という哲学の立場がある。自分の意識だけが確かなものであり、その他のものは自分の意識無くして存在できないとするものだ。別にこの考え方に賛同はしない。ただ、あの時アサガオは確かに僕の中にしか無かった。僕だけがあの花の美しさを理解していた。いや、僕こそがあのアサガオを美しくしていたのだ。

最近はそのような感動を覚えることがなくなった。ニューヨークで見た夜景も、朝日が差し込むエメラルドグリーンの滝壺も、あの時見たアサガオの美しさには遠く及ばない。

僕の意識が美しいものを美しいものたらしめるのなら、もっと美しいものに出会うために必要なのは、きっと関心と愛情だ。

少なくとも、今の僕はそう思う。

 

受け皿

 感動の価値はどこにあるんだろう。昔よく考えていたことだ。多くの人が感動の涙を流すとき。例えば映画のクライマックス。例えば卒業式。僕は子供の時、卒業生お別れの言葉では絶対に泣かないといつも心に決めていた。だって、在校生からの言葉のときには無音なのに、卒業生からの言葉の時だけしっとりとした涙をそそるBGMが流れ出すなんて、ずるいと思ってたから。まるで、ここが泣きどころですよ!さあ!と言われてるみたいで、ここで涙を溢してしまったら相手の思う壺の様な気がして、気にくわなかった。こんなBGMが加わるくらいで出てくる涙なんて、こざかしい、そんなの偽物だと、本当に感動しているなら勝手に涙は出るだろうと考えていた。

 今では僕も映画やよく知らない国の被災地復興映像で涙が出てくるようになった。歳を重ねると涙もろくなるというが、あの時僕が感じていた思いは若さゆえの尖りだったのだろうか。

 僕の音楽に対する考え方が変わったのは初めて坂本龍一さんの戦場のメリークリスマスを聴いた時だ。その曲のバックストーリーはなにも知らなかったのに、澄みきった寒空のような切ない始まりが次第に叫びや怒りに変わっていくのを感じて自然と涙が出た。音楽は言葉と同じだとはっきり分かったのはその時だった。だから、自分の伝えたい思いや願いが乗っている音楽やBGMは大好きだ。どんな思いが込められているのか考えてしまう。 

 きっとあの時卒業式のメロディや映画のクライマックスで流れる主題歌を受け止められなかった僕は、音楽に対する感度や受け皿が小さかったのだろうと思う。音楽だけじゃない。今だってきっといろいろなことに対する受け皿が小さくて理解できないことが沢山あるんだろう。だからこそ、苦手なことにも、いけ好かないことにも積極的に飛び込んで行きたいと思う。飛び込んでみた後で判断すればいい。そうすれば、もっと世界が好きになれる気がする。

神と穏やかな決別を

 

生まれて初めて"リング"を見た。貞子が井戸から這い出してくるシーンを見て、ここ見たことある!、とか言って。サブスク全盛期に呪いのビデオに閉じ込められた貞子を憂いながら、アイスを齧る。

僕はお化けとか神様を全く信じていない。信じてないと言うよりは、いないことの証明は出来ないけど、いる根拠も無いから、いないと考えるのが妥当という感じ。居てくれるなら居て欲しいけど、期待はしてない。信じている人が心から羨ましい。

僕はクリスチャンの家庭に生まれたから、毎週日曜日は教会に行ってミサに与ってた。食事の前には感謝の祈りを唱えたし、クリスマスだって家族としか過ごしたことがない。5年生くらいまでは、自分にとって最高の喜びは天国に行くことだと信じて疑わなかった。しかし、6年生になって、ふと思った。大人はなぜ天国があると知っているのだろう。証明できた人はどこにも居ないはずなのに。背中がぞわぞわして、なんだかとても良くないことを考えたような気がした。

そこからは次々に疑問が溢れだした。どうして神様は私たちを愛しているのに、地獄に行く人が居るんだろう。教会は進化論を支持していながら、どうして人間だけが特別だと決められるのだろう。どうしてイスラム教や仏教ではなくキリスト教が正しいと分かるの。次第に疑問は不信に変わって行った。その週の日曜日、神父に質問を投げかけたが、僕が欲しかった答えは返ってこなかった。ただ、神様の考えは私たちの理解に及ばない、信じる者こそが救われる、と。返ってきた言葉を聞いて、神様を信じる理由がないと気付いてしまった。

死んだら天国に行って永遠にハッピーに暮らす予定だった子供の僕は頭を抱えた。じゃあ、僕は死んだらどうなるの。消えてしまうのか。それからは神を信じる理由がないか色々と探したりしたが、考えれば考えるほど神などいないという答えに帰着する。今では空飛ぶスパゲッティモンスター教で笑う無神論者になってしまった。皮肉なことに偉大なる神様についてもっと知ろうとした結果、神の存在を否定してしまった。

 

お化けや神、超能力を信じている方がいれば是非一緒にお話ししたい。そういったものを信じることが人生の支えになることも理解しているし、決して悪いかとか、無意味かどうかの話がしたいのではない。盲目的に信じているのでないならば、友達として、和やかに議論を重ねたい。どうして信じるのか。あなたの人生のゴールは何だ。僕はただ、逃げるように心を閉ざした神に、次こそは穏やかな別れを告げたいだけなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自意識過剰

自意識がデカくなりすぎている。

自意識過剰とも言う。もう少し具体的に言うなら、善く見られたいシンドローム、他者評価気になり疾患、嫌われたくない病。いや、嫌われるならまだ良い。相手からの失望が1番怖い。

そうは言っても、人は誰しも完璧じゃなくて、後ろめたいことの1つや2つは―――なんて聞き飽きた。違う、そんなレベルじゃない。鼻の頭に汗かいてたらキモいと思われるかも、とか、話しかけたら嫌われないかな、とか、挙げ句の果てには髪の毛先みたいな些細なことさえ気になり出したら止まらない。心無い人は「誰もそこまでお前のこと見てないし興味もねえよ」なんて言ってくる。いや、誰かが見ているとかじゃなくてね!?自分が!自分がね!?気になっちゃうんだよ~!なんて取り繕うけれど、心の中は図星で赤面している。図星だと認識できてる通り、誰もそこまで見てないし見てたとしてもそんなことで嫌わないことを理解はしている。心無いとか言ったけど、あなたは正しい。分かってるんだよ。

でもね、だからと言ってこれは簡単には治らない。もちろん自分の頭で考えて、やりたいことをやって毎日生きているはずだけれど、それすらも疑いたくなってくる。僕は本当に僕の意思で生きているのか。いつの間にか自分が作り上げた他者意識に挟まって水のように流れながら生きてはいないか。

だから、僕はレ・ミゼラブルが大好き。だって、あそこでは誰もが強い信念に命を懸けてまで生きているから。中でもジャベール警部は最高に好きなキャラだ。宿敵であるジャン・バルジャンに命を助けられてしまい、自分の持つ正義を信じられなくなって最後には自殺してしまった。そんな真っ直ぐな生き方があるだろうか。

今だって、こんな暗くて陰気なことをつらつら書くだけだと...、自分に酔ってるような文章だと思われないかな、何か明るいオチは無いだろうかなんて考える始末。でも、ここでは陰気だろうが取り繕わない僕の本音を書く場所にするって決めているから、居心地の悪さに耐えて頑張って書く。僕は今落ち込んでないし、それほど自己嫌悪もしていない。そもそも、いつもこんなことを考えている訳じゃなくて、たまーに頭をよぎるけど無視してる気持ちを言葉にしているだけ。僕ってこんなところがあるよな~程度の軽い気持ちで書いてる。

 

こうやって人が見れる場所で言葉にしたことが、なにか僕の意識を少しでも変えてくれたら、そう願ってる。