徒然なるベルボーイ

わざわざ誰かと議論するのも野暮ったい、でも言語化したい、そういうことを書きます

受け皿

 感動の価値はどこにあるんだろう。昔よく考えていたことだ。多くの人が感動の涙を流すとき。例えば映画のクライマックス。例えば卒業式。僕は子供の時、卒業生お別れの言葉では絶対に泣かないといつも心に決めていた。だって、在校生からの言葉のときには無音なのに、卒業生からの言葉の時だけしっとりとした涙をそそるBGMが流れ出すなんて、ずるいと思ってたから。まるで、ここが泣きどころですよ!さあ!と言われてるみたいで、ここで涙を溢してしまったら相手の思う壺の様な気がして、気にくわなかった。こんなBGMが加わるくらいで出てくる涙なんて、こざかしい、そんなの偽物だと、本当に感動しているなら勝手に涙は出るだろうと考えていた。

 今では僕も映画やよく知らない国の被災地復興映像で涙が出てくるようになった。歳を重ねると涙もろくなるというが、あの時僕が感じていた思いは若さゆえの尖りだったのだろうか。

 僕の音楽に対する考え方が変わったのは初めて坂本龍一さんの戦場のメリークリスマスを聴いた時だ。その曲のバックストーリーはなにも知らなかったのに、澄みきった寒空のような切ない始まりが次第に叫びや怒りに変わっていくのを感じて自然と涙が出た。音楽は言葉と同じだとはっきり分かったのはその時だった。だから、自分の伝えたい思いや願いが乗っている音楽やBGMは大好きだ。どんな思いが込められているのか考えてしまう。 

 きっとあの時卒業式のメロディや映画のクライマックスで流れる主題歌を受け止められなかった僕は、音楽に対する感度や受け皿が小さかったのだろうと思う。音楽だけじゃない。今だってきっといろいろなことに対する受け皿が小さくて理解できないことが沢山あるんだろう。だからこそ、苦手なことにも、いけ好かないことにも積極的に飛び込んで行きたいと思う。飛び込んでみた後で判断すればいい。そうすれば、もっと世界が好きになれる気がする。